∞implantation∞
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私の足は それ自体が意思を持って漂流していた。
炎天下の砂漠の中を、真冬の雪原の上を、地中深く沈んだ遺跡の中を、ただ当てもなく彷徨って。
「……痛っ……」
何時かこの足が役割を為さなくなり、腐って崩れ落ちるまで私は歩き続けなければならないのだろう。
だが惨痛を訴え 頭にまで重く響いてくるのは傷だらけの足ではなく、腹の奥だった。
「…病院、行こ…。」
∞implantation∞
『え~と…今日は下腹部に痛みがあると聞きましたが。』
急病につき、午前の授業を休むと連絡して訪れた婦人科では、平日の午前中と言う事もあり 談笑を交わす主婦達やお腹の膨れた妊婦で混雑していた。
予約を入れずに行った為 ニ時間近くは待たされただろうか。
『出血はありましたか?』
「いえ…」
『最後の生理は何時だったか覚えてますか?』
「え、と…確か、先々月の末だったと思うんですが。」
『ふむふむ…生理は、元々不順な方ですか?』
「はい、二ヶ月に一回、なんて事もありました。」
『なるほど…あ、先ほど受付で記入して頂いたチェック用紙を見せて貰った所、まぁ詳しく調べてみないと確証は出来ませんが…』
どのように子宮頸管は閉じて得るん。
医師の話を聞く側から 再び腹に痛みが走る。
何故かその度、彼の艶めいた顔が幾度もちらついて見えた。
『かなりの高確率で、妊娠初期の症状ですねぇ、これ。』
脈拍が徐々に加速してゆくのが分かる。
膝の上で落ち着かない手を押さえ込めながら 先刻から頭の奥で聞こえてくる子供のはしゃぐ様な声に 耳を澄ましていた。
だから言ったのに、
言われるままに薬を飲んでいれば、こんな事にならずに…済んだのに―――…
『もしもし?聞いてますか?!』
「あっ、はい、すいません聞いてます…」
『じゃあとりあえず診てみましょう、あちらで下着を脱いで、奥の診察台に横になって下さい。』
「……分かりました。」
事後に何時も彼から渡されていた白い錠剤は 性交の後72時間以内に服用すれば 受精したとしてもその後の着床を妨げられるらしい。
こんな関係が続けば、何時の日かこうなるだろう事に不安や焦燥感を抱きながらも 私は一度もそれを服用する事はなかった。
そうした中に、もしかしたらという僅かな期待があったからだ。
この先何の変化も望めないだろう私達の爛れた関係を揺るがすかもしれない、肉眼で捉える事も困難な本当に小さな希望が 私に宿れば 彼は…
『…あぁ、いますねェ。ほらここ、赤ちゃんがいるの、分かります?』
つわりを回避する方法
冷静と言うよりかは冷めた目で自身の子宮内を写すモニターを見ながら 私は裂ける様な頭の痛みに叫びたくなるのをひたすら歯を食い縛り、堪えていた。
―――…
「あぁ、先生。どうでした病院?」
五時限目の開始前の予鈴を聞きながら職員室に入った直後、私の朝の電話を受けたらしい教師が顔色を窺ってくる。
「えぇ、大した事無かったみたいです。疲労からくる風邪だとかで…。」
「そうですか、それはよかった。じゃああと二時間少々ですが、お願いしますよ。」
「はい、ご迷惑お掛けしまして、すみませんでした。」
体中に走っていた痛みはきれいに引いて 教室に向かう足は軽い。
本鈴が鳴り 教卓についても調子の良い体とは裏腹に 頭の中はこれからの事を憂い 乱雑に掻き回されるばかりだった。
『何突っ立ってるの。』
放課後に応接室を覗くと 既に彼が何時もの席で委員会の執務に暮れていた。
『暇なら此れ、コピーして来てくれる?』
「雲雀くん。」
目を落としていたプリントから顔を上げた彼の目には 明らかに不機嫌めいた雰囲気が見てとれる。
自分の流れを私が遮ったせいなのだろう、これ以上何か口にすれば 問答無用で瞬速の平手打ちを受ける事を覚悟の上で、強く結んだ拳に再度力を籠めた。
「話があるの。」
どれくらい胸フィードの赤ちゃん
『聞こえなかった?コピーして来いって言ったんだよ。』
机の上に 彼の手から離れた数枚のプリントが叩き落とされる。
これが、私が無傷でこの部屋を出られる最後の警告だと、鋭く吊り上がるその目は発していた。
「妊娠したの。」
静寂に還った室内に 壁掛け時計の秒針だけが単調に打ち響いて、時間の経過を刻んでいる。
「今日病院行って診て貰ったら…もう、二ヶ月になるって。」
眉一つ動かさない彼の向ける 冷たい眼差し。
今にも凍えてしまいそうに冷徹なそれに耐えきれず 私の方から目を背けてしまう。
『それで?』
「え…」
『それを聞いて僕にどうしろと?』
「………。」
告げた所で、彼からどんな返答が返ってくるかなど 予想もつかなかった。
只 今の様な目をされる事は無いだろうと 根拠も無いのに思い上がっていた自身の思慮があまりに欠けていた事に 落胆するしかなく…
『薬、飲まなかったんだね。』
「………。」
返す言葉も浮かばずうつ向く先で 椅子が引かれ、私に近付いて来る足音を聞く。
『大丈夫、先生を責める気はないから。』
「…恭弥くん…っ…」
その時 これが彼から優しく抱き締められ感じた、初めての温もりなのだと気付いた。
『…楽にして。』
溢れる涙も構わず離れてゆく彼の手を追うのは 夢の様なこの瞬間を朽ち果てる寸前まで私の全てに刻みつけておきたいからなのだと、信じて疑わなかった。
『なるべく苦しまないように…お腹蹴ってあげる。』
∞implantation∞
Nov.11th.06.
There is no signal.
芝咲 綾
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